おうちの形をした小さなお仏壇

この23日で実父の三回忌を迎えます。
一回忌は葬儀をした葬儀屋さんで家族だけの法要をおこないました。
葬儀も法要も本来なら私が主になるのはおかしな話なんだけれど、まぁ、いろいろ諸事情があるわけで、誰がやってもいいわけです。
最期の最期まで看た私としては最後まで面倒をみたいという気持ちもありました。

3日前から酸素マスクをつけることになった父です。
何度めかの「万が一」「もしものこと」という状況になっていました。
今まで何度も、「万が一」「もしものこと」という状況になり、そのたびに不死鳥のように蘇り、憎まれ口を叩くじいさま健在となっていました。
このときは流石にそんな元気のカケラは見受けらません。
子ども達を呼び、じいちゃんに会わせます。孫娘の花嫁姿の写真に涙ぐむ父です。
初孫でずいぶんと可愛がっていた娘の、成人式を見れるかなと言っていたのが、成人式どころか結婚式の写真を見れたのが嬉しかったのかもしれません。
なんとなく、自分の最期を感じていたのかもしれません。
脳梗塞で左半身が麻痺し、リハビリで復活したものの、徐々に麻痺がひどくなり、最後、左手はひじからくの字に曲がったままでした。
歩けなくなった足は筋肉もなく痩せ細っています。
それでも、頭ははっきりしていたのがせめてもの救いです。
孫の顔もちゃんと認識し、細々と会話もできます。
だんだんと起きている時間が短くなっていたのは、まさに寿命というものなのかもしれません。
心電図と血中酸素を測る器具をつけられ、その状況はナースステーションで管理されるようになりました。

その週は毎日、父のとこに通うことにしました。
その日は午後2時まで仕事をして会社を出ます。
万が一に備えて、仕事の段取りをつけてから電車に乗りました。
会社の決算時期と重なっています。
堺筋本町から九条で阪神なんば線に乗りかえ三ノ宮から病院バスに乗って、六甲の山の中に入って行きます。
この季節、16時ごろの有馬街道はすでに暮れかかっていて、紅葉がやけに切ないのです。
これが8年通った病院バスに乗る、最後となりました。

3日前に娘の結婚式の写真を見て涙ぐみ、弱々しくも会話をした父はずっと寝ています。
テレビでは父の好きな大相撲の、この年の初めに他界した千代の富士の特集をやっていました。
私は椅子に座って父の横でそれを見ています。
主治医の先生が来て、「大好きな相撲、やっているよ」と話しかけられたのが印象的です。
そのときはウトウトしていて聞いているのか寝ているのかという状況でした。
有馬の病院に来たときからお世話になっている主治医の先生と会うのは、これが最後になりました。
そして、他界した千代の富士の取組みが父と見た最後のテレビとなります。

「心拍が下がってきたらすぐに連絡しますね」
2日前、看護婦さんにこう告げられていました。

「心拍って急に下がるんですか?ゆっくりですか?」
「それは人によって何とも言えません」
「まぁ、そうでしようね」
「娘さん、遠いところから来てはるので間に合えばいいんですけど」
「ここから帰るときはこれで最後かもしれないと覚悟しているので大丈夫です」
毎週土曜日に2時間かけて通っているのは看護婦さんもわかってはります。

明日は祝日やし、朝から夜まで1日、ここにいようと頭で考えつつも、そんなことにはならないような気がしました。
この日は帰路につきました。

その夜、いや、正確には日が変わった、夜中の1時半に携帯電話が鳴ります。
こんなときでも寝たら爆睡の私は遠くの方で電話が鳴っているような、その程度にしか聞こえず、それは長い間、鳴っていたようです。
やっと電話の音に気づきますが、そのときに電話は切れてしまいます。
着歴を見ると病院からです。
慌ててかけ直します。心臓はバクバクしています。

夜勤の先生からでした。
「お父さんの心拍が低下しています。すぐに来てください。どれぐらいかかりますか?」
「車で1時間半ぐらいでしょうか。すぐに向かいます」

その電話の様子で起きてきた旦那と次男坊は慌てて着替えます。
娘と長男に電話します。
部活メンバーと福知山マラソンに出る予定の長男は大学にいるようで、「今日、マラソンやねん」とのんびり言います。
すでに狼少年ならぬ、狼爺さんになっているのでしょう。
じぃちゃん、また、不死鳥みたいに元気になるんちゃうとでも思っていたのかもしれません。
結局、豊中にいてる長男を娘夫婦が拾って病院に向かうことになります。
兄に電話します。
こんなときでものんびりしています。
私はこののんびりにイラつきます。
私がここから病院に向かうより、兄が病院に向かう方が早いのです。
とにかく、状況だけ伝えます。

病院まではいろんな行き方があります。
このときは芦屋から芦有道路で病院に向かうことにしました。
病院の裏山辺り、料金所出口の手前で病院から電話がかかってきます。
「あとどれぐらいですか?」
「もうすぐ芦有道路の料金所なので10分もしないうちに着きます」
「わかりました」

たぶん、このときに父は息を引き取ったのか、息を引き取りそうなのか。
そんな状況やったと想像しています。
病院の入り口で車から降りた次男坊と私は父の病室に走ります。
そして、私が病室に入り父の元に着いたとき、夜勤の先生が時間を告げ「ご臨終です」と言いました。
ちゃんと最期に立ち会えたようにしてくださったのです。
ちゃんと間に合ったというようにしてくださったのだと思います。

父は夏頃に、口からは何も食べれなくなり、太ももの静脈からの点滴で命を繋いでいました。
その後、一抹の不安を抱えながらの9月、ハワイでの娘の挙式を終え、11月の最初に開催された娘の1.5次会も無事に終えました。
そのあと、父は88歳の誕生日を迎えていました。
徐々に命の灯火が消えていくように最期はごくごくありきたりな逝き方で本人も満足しているのではないかと思います。

何度も「万が一」かもを迎えたので、すでに葬儀屋さんとは打合せ済みです。
病院で亡くなったときの段取りも教えてもらっています。
細かいところまで確認しました。
例えば、亡くなった父は何を着せてここまで連れてくるのか?
そのときの車はどうすればいいのか?などなど。

退院するために体をきれいにしてもらい、新しい寝間着を着せてもらうのを涙の中で見ながらも、頭の中では次の段取りを考えます。
みんなのスケジュールを確認します。
葬儀の日程を決め、葬儀屋さんに電話をしました。
翌日の葬儀は可能か?と尋ねます。
結局、その日にお通夜、翌日朝一、9時からの葬儀にしました。
葬儀屋さんの車が父を迎えに来てくれるまで病院で待機します。

仕事の段取りをつけるため旦那は仕事に向かいます。次男も大学に行きます。
マラソン出場をキャンセルした長男と娘夫婦の車で葬儀会場に向かいます。
途中、実家により遺影にする写真を探します。
2歳ぐらいの娘と一緒に写っている写真にします。
88歳で逝った父よりずいぶん若い写真です。
60代の写真です。
初孫と一緒の嬉しそうな父の、父だけの遺影に仕上げもらいました。

葬儀会場は私が暮らす町です。
葬儀の準備は迷うことなく進めます。
このあたり、即断できる性質なのであれこれ悩みません。
人が亡くなったときの一連の流れを長男と娘は経験しました。
この年の最初に子どもたちの喪服は用意していました。
喪服やらお通夜でお渡しするお布施の用意をしに一旦自宅に戻ります。
その間、父のそばには娘夫婦がいてくれました。
私が主になって動かなければなりません。
私の住まいに近い場所でするのが当然の流れです。
実家の近くの葬儀屋さんの互助会はすでに解約していましたし。

そうして、段取よくお通夜、お葬式を済ませました。
夜中の電話から1日半でお葬式を終え、自宅に戻ってきました。
葬儀の翌日には仕事にも行きました。
最後の最後に私の手を煩わすことが少なくて済むよう逝ってくれたのだと思います。

本来なら三回忌をするものなのでしょうが何もしません。
お空の上で呑んだくれているでしょう。
父も忙しいと思います。
やっと可愛らしい仏壇を購入しました。

代々受け継がれていくものというのがあればそれに倣えばいいのですが、我が家にはありません。
まして私は嫁いだ身です。
父とは苗字が違います。我が家の流儀に倣うのもまた違うのです。
そんなことはどうでもいい話です。
この先、私が父を祀るわけです。その先の義父母のことも含めて、すでに考えは決まっています。
私の考えを家族(家を出た子どもも)に伝えています。

それにぴったりの小さな仏壇を見つけました。
おうちの形をした小さな仏壇です。

三回忌を迎えるのにぎりぎり間に合った小さな仏壇とこうして父のことを追想するのが法要です。

これはイメージ写真です。
いのりのオーケストラ